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半年ほど前に、近内悠太さんと知り合う機会があって著書「世界は贈与でできている」を興味深く読んだ。最近の彼の投稿に、わたしが思うインストラクションの発想に近いな、と思うことが続いたのでご紹介。
(以下 facebook 2021/8/13 近内悠太さんの投稿より転載) ”利他って天ぷら揚げるようなものだよなって思ってます。こちらのタイミングで無理矢理、油から取り出すことはできなくて、揚がってる音とか色とか見逃さず(相手をよく観察して)に、揚げ時を逃さない、揚げ時を「待つ」というような。期待しない、無関心、というのは、利他が届かないことへの諦めであり、恐れです。利他とは、天ぷらを揚げる「勇気」です。”
”目の前の相手に、興味と関心を向けながらも、ただし呪いをかけない、ということができたならば、それはもうすでに「祝福」になっているんじゃないか。とは言ってもこれが相当難しい。気になる相手にはついつい余計な言葉をかけ、「私はあなたを心配しています」という過剰なメッセージを送ってしまう。これがなぜ呪いなのかというと、「私はあなたを心配しています」には、「あなたの現在の行動は間違っている(と私は判断しています)」というメッセージが含意されるからです。意図的に祝福することはできないが、意図的に呪いをかけないことはできる。なぜなら、先の文の中に「ついつい」という副詞があったからです。自らがついついしてしまうことを自らが拒否(veto)することはできるはずだ。つまり、祝福の前提条件として、「二人の私」が必要なのです。「失敗する私」とそれを「眺める私」の二人です。愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ。と、言いますが、僕らはみな本当は愚者なのではないでしょうか。おそらく、利他は、失敗からしか学べない。そんな気がしています。興味と関心を向けながら、ということは、どこかに「期待」はあるわけです。期待しない、というのは無関心ということの別名です。期待を胸に秘めて、口外しない、ということです。さすれば、願いは祈りとなる。”
(以上facebook 2021/8/13 近内悠太さんの投稿より)